島四国の歴史 |
大島島四国88カ所は、島の医師毛利玄得・修験者金剛院玄空・庄屋池田重太の大変な努力により文化4年(1807年)に開創されました。
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毛利玄得の生い立ち |
毛利家は代々医者として今治に住んでいたが、今治藩主、3代松平定陳は大島に医者のいないことを憂い、貞享元年(1684年)2月、毛利得元に命じて、大島に移住させた。
毛利家は毛利輝元の末子を第1代の開祖に仰ぎ、得元の孫に文領(玄得の父)があり、文領の2男玄淳(玄得の兄)は、大島で医業を相続していたが、備後の三原に藩医として召し出され、三原に移った。
文領には玄得という3男があり、幼児から寺の小僧となって仏道の修行につとめていたが、兄玄淳が備後の三原に召されると還俗して医術を修得して、父、兄のあとをついで開業した。この毛利玄得が島四国を開設して不滅の業績を残した人である。
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島四国開所の発心 |
毛利玄得は医者として、日夜医業にいそしんではいたが、一旦僧籍に身をおきながら、途中で仏道をふり捨てて医者に転業したことに対する良心の呵責を感じていた。いろいろと思いつめたあげく、四国88カ所になぞらえて、大島に88カ所の霊場を設けて、世の人々を救う願いをおこし、この考えを当時の庄屋の池田重太、修験者金剛院玄空にうち明けて相談した。すると両人もこの計画に大いに賛同し、互いに協力し合うことを誓い合った。
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創設の苦心 |
しかし、なんといっても、本四国の霊場の状態や道順がわかっていないのでは、これに似た88カ所の霊場がつくれない。玄得はみの笠と杖を持ち、遍路姿になって何回も本四国霊場を巡拝し、道順、土地のありさま、お堂のありかなどについて調査して帰った。
これによって、島四国88カ所の設計ができると、玄得・重太・玄空の3人は協力して、重い荷物を背負うて山道や断崖のふちを歩き、縄を引き、杭を打ち、ある時は茨の中を切り開いて進み、ある時は浜辺や礒のふちで波に打たれながら工事を進めていった。その辛苦かん難は筆舌につくしがたいものであった。
玄得は、この事業のために、長年貯えていた家財もほとんど使い果たしたが、文化4年3月20日になって、ようやく島四国開きをするところまでこぎつけた。
この開所式は、本庄の金剛院玄空の家を借りて執り行った。多くの僧侶の読経の声に和して、笛や太鼓の響きが2日3晩にわたって鳴り続いたという。こうして島四国は開所したのである。
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玄得らの取り調べと処刑 |
開所から10ヶ月足らずを経たあくる年、文化5年(1808年)2月15日、多くの民衆が集まることに危惧を感じた今治藩庁から玄得・重太・玄空の3名に呼び出しがかかった。3名にとっては全く晴天のへきれきというべき出来事であった。3人は島の組頭に付き添われて今治に渡り代官所で取り調べを受けた。
同月の23日には大勢の藩役人が大島に来て、主犯の3名はもとより郡役人並びに村々の庄屋、組頭に至るまで取り調べが行われ、28日夕方、いよいよ藩庁役人から、島四国関係者一同に対する判決の申し渡しが行われた。
1.処刑 毛利玄得
その方儀、主謀者となり衆人を騒がせ
たる段、不届きなるに由りて、一家族、
3年間、流罪申しつけること
1,処刑 池田重太
その方儀、身の役員たるをかえりみず、
みだりに毛利玄得を援助し、衆人を騒
がせたる段、不届きなるに由りて、役
儀を免じ、苗字を取り上げる事
1,処刑 金剛院玄空
その方儀、身、修験者たるをかえりみ
ず、みだりに毛利玄得を援助し、衆人
を騒がせたる段、不届きなるに由りて、
謹慎申しつける事
文化5年2月28日
このように、玄得は家族ぐるみで3年間の流罪、重太は庄屋の役と池田の苗字を取りあげられ、玄空は謹慎の処分を受けた。玄得の両親文領夫婦は老齢のため5ヶ月後に流罪が解かれ帰宅を許されたが、父、文領は翌年の文化6年5月20日に78才で死亡した。
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准四国の公認 |
この事件のあと、玄得らの開いた島四国に巡拝する者は捕らえられて迫害を受けていたが、それでも毎年春になると多数の巡拝者が殺到し、その数は年を追ってます一方であった。そして数年後、京都の門跡寺院、御室仁和寺本山御所から准四国を称することが許可せられ、御紋章提灯を下賜された。これによって島四国ははじめて自由に巡拝できるようになったのである。
これについて、越智郡大島准四国創設由来によると、次のように述べている。
御室本山御所より台命を下賜、
毛利玄得発起伊予国越智郡大島新四国
88カ所、今より以後、准四国と称すべし、
依って御紋章提灯下賜
けだし、これ異例にて、以後公然、准の
一字を冠するに至りたり。
但し、御紋章提灯は恐れ多しとし、年を経
て返納せしという。 |
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玄得の遺跡 |
毛利玄得は天保15年(1844年)7月11日、75才で波乱に充ちた生涯を閉じた。
玄得の辞世
かりの世の火宅の夢も覚めにけり 阿字の古巣に帰るこの身は
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注) 門跡寺院とは皇族や貴族が出家して住まいする特定の寺院のこと。「門」とは
元来天皇を意味する。仁和寺は宇多天皇が出家したのを初代とし、明治維新時
の第30代まで皇子皇孫が住職(門跡という)を続けた。
【参考 吉海町誌】
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